東大の現代文25カ年[第5版] [難関校過去問シリーズ]東大の現代文25カ年[第5版] [難関校過去問シリーズ]
著者:桑原 聡
販売元:教学社
(2010-06-08)
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1984年の東大の問題、西部邁「経済倫理学序説」。

本文の冒頭が、

《進歩主義の態度には遊びの要素が少ない。遊びとは、厳格なルールに従い、非日常的な形で、緊張とそれからの解放とを味わうことである。……》

から始まっていて、第三段落の途中で

《いずれにせよ、言論の質が保たれるべきだとするなら、ア非日常性において遊ぶという精神が必要である。》

と書いてある。そして設問が

(一)「非日常性において遊ぶという精神が必要である」(傍線部ア)とあるが、「非日常性において遊ぶという精神」とは、どのようなことをいうのか、説明せよ。



さあ、どう答える???



これに対する赤本『東大の現代文25カ年』の解答は

【進歩主義一色の日常を離れて、厳格なルールに従い非日常的な形で緊張と緊張からの解放を味わおうとする精神。】

確かに、「非日常性において遊ぶとはどういうことか?」と聞かれて、本文の中の「遊び」の定義をまとめているけど…


これって、本文一行目そのまんまじゃね?



高校入試ならこれでも正解。
MARCHでもこれだけ書ければOKだ(立教を除く)。

でも、東大だぞ。こんなので差がつくか?

もしこれが正解なら、東大「合格者」の多くが国語で5〜6割しか得点できていない事実が説明できない。

一体みんなどこで点数落としてるんだ???ってことになる。




もしもこの設問が「遊び」の定義を求めているんだとしたら、本文一行目をまとめれば十分だ。


でも、もしも出題意図がまったく別なところにあるとしたら???





さて、傍線部のあたりをよーっく見よう。

《いずれにせよ、言論の質が保たれるべきだとするなら、ア非日常性において遊ぶという精神が必要である。》

そう、筆者は「言論の場における」遊びの精神の必要性の話をしているんだよ。遊び一般の話じゃない。




こう考えると、この設問の構造は次のようになる。

「遊びの精神→(    )→言論の質を高める」

普通なら議論のときは「真面目にやれ」と言われるのに、筆者は逆に「遊んだ方が言論の質が高まる」と言う。矛盾してる。


「一見矛盾している理屈の因果関係を埋めろ」って、なかなか高度な問題だよね。




真面目な議論では決まり切った意見しか出ない。
少数意見や反対意見は封じられる。

戦時中の日本も、たぶん真面目すぎたんだね。

言論の質を高めるために必要なのは意見の多様性だ。



というわけで、俺の「因果関係を埋めた」解答はこちら。

【進歩や実利を求める真面目さから離れることにより、言論に新たな視点や自由な発想をもたらそうとする精神。】


比較のために前述の『東大の現代文25カ年』の「本文一行目をまとめただけ」の解答ももう一度。

【進歩主義一色の日常を離れて、厳格なルールに従い非日常的な形で緊張と緊張からの解放を味わおうとする精神。】




「まとめる」主義の同業者に「埋めた」解答を見せると、「はぁ?!『新たな視点』なんて本文に書いてないし!」と猛反発を食らうことがある。

でも「本文にはっきり書いてある範囲で答えを作れ」なんてルール、あったんか???

つーか、本文一行目の抜き出しを「東大の解答」と称して疑問を持たない呑気さが不思議だ(笑)